私の住む中村橋の駅近くに、比較的大きな本屋が二軒あるが、そのうちの一軒は、通りみちでもあるので、頻繁に立ち寄って好きな本を買うことにしている。今、読んでいる安岡章太郎の「観自在」という随筆風の本もそのうちの一つである。実をいうと、慶大出で芥川賞作家でもあるこの人の本は、関心はあったがあまり読んだことがなかったのである。ある日、同じ本屋の本棚に、「カーライルの家」という表題の本を見つけた。それは彼の作品だからというより、カーライルの表題の方に惹かれたからである。カーライルは、英雄崇拝論などを書いたイギリスの作家で、戦前、鶴見祐輔氏の英雄待望論などに魅せられたわれわれ世代には、多少は知られた存在である。収録されている作品は、小林秀雄との交流や志賀直哉のことなどに触れた「危うい記憶」と、本題の「カーライルの家」の二編であった。前者の作品で、筆者が、昭和19年に陸軍二等兵として旧満州の孫呉に入隊したが、湿性胸膜症を発症し、高熱で寝台に寝ている間に、部隊はフィリピンのレイテ島に移動しほぼ全員戦死してしまったという体験の持主であることを知った。ところで、肝腎の本題に触れると、カーライルは、一風変わった人で、ロンドンのチェイン・ローに博物館として今日も残っているらしいカーライルの家も、五階を継ぎ足した四階建の極めて無愛想な家だといわれており、なぜか留学中の夏目漱石は、この家を四度も尋ねている。このカーライルは、生涯の心血をそそいで書き上げたフランス革命史の原稿を、友人のスチュアート・ミルに預けたところ、貴婦人のほまれ高いミル夫人に焼かれてしまい、もう一度書き直したという逸話の持主、この点がこの作品の最大の魅力である。