仲村渠: 我が事務所は、来る2013年に事務所創立50年を迎えます。そこで、「事務所創立50年を迎えるにあたって」とのテーマで座談会を行いたいと思いますが、まず、「50年」の意味について新井先生に伺いたいと思います。

新 井: 私が弁護士登録をしたのは1956年ですが、同じ年に、当事務所の前身ともいうべき芦田・岩村法律事務所が開設されています。その後、私は、1961年に芦田・岩村法律事務所に入所したのですが、1963年に事務所が虎ノ門に移転したことを契機に、事務所名を現在の東京中央法律事務所に変更しまして、そして、来年が東京中央法律事務所という看板を掲げて50年ということになるのです。

仲村渠: 当時の事務所の理念、特徴はどのようなものだったのでしょうか?

新 井: 事務所が発足した63年当時、所属弁護士は芦田弁護士(研修所4期生)をトップに、岩村・新井・尾山・雪入・田原弁護士たち10名程の、30歳代の若手メンバーで構成されていました。当時は戦後労働運動が本格軌道に乗り、60年安保闘争を闘い抜いた高揚期にありましたから、メンバーの全員がその中核部隊であった官公労働組合(日教組や国労・動労など)の権利闘争や弾圧反対闘争に全力で取り組む一方、新井が以前から担当してきた砂川事件や朝日訴訟などの憲法・人権裁判にも活発に取り組んできました。メンバーに共通していたのは、「労働者をはじめ、社会的な弱者のために闘う」という覚悟であったと思います。

仲村渠: 江森先生は、その約10年後の1972年に入所されていますが、その頃の事務所を取り巻く状況とその後の移り変わりについてお話下さい。

江 森: 私が事務所に入所した当時、公務員や国鉄や電電公社労働者などのストライキの制限をめぐる争いが、運動でも裁判でも大きな課題となっていました。
 1966(昭和41)年の全逓東京中郵事件最高裁判決、1969(昭和44)年の都教組事件最高裁判決で、刑事処罰による制限が憲法28条の趣旨に反するという判断が出され、民事処罰からの解放を勝ち取るべく運動をすすめていた時期で、事務所は教育公務員組合や国鉄の労働組合と共に運動と裁判を取り組む中心的な事務所のひとつで、それこそ、事務所の構成員は全国を飛び回っていました。
当時の春闘では国鉄労働者が毎年のようにストライキを行っていましたが、事務所構成員はストライキの現場に泊まり込みにいきました。こうした中で、労働者の権利を守る労働弁護士の意気込みと理論を身体で覚えることができました。
 しかし、1973(昭和48)年全農林警職法事件最高裁判決、1977(昭和52)年名古屋中郵事件等の逆流判決が出て、抵抗する力を取り返せない状態が今日まで続いているといえると思います。
 なお私はこうした運動を進める中で、総評弁護団の活動にかかわり、その後1989年に「日本労働弁護団」の幹事長を務めることになり、さらに色々学ばせてもらいました。

仲村渠: 事務所50年の歴史の中で、事務所全体が総力を挙げて取り組んだ事件としては、まず、家永教科書裁判が挙げられると思うのですが、その取り組みについてお話下さい。

新 井: 家永教授の教科書検定違憲訴訟は、事務所が発足して2年後の1965(昭和40)年からスタートしています。スタート時点では弁護士は尾山・新井・今永博彬の3名でしたが、間もなくして森川金寿弁護士をはじめとする日教組本部顧問弁護団の全員が応援に入り、そのほかにも、ニュースを聞きつけて東京や大阪、名古屋の弁護士達が参加を申し出てくれる状況となり、そういう中で自然と、事務所の弁護士達も全員参加という態勢になりました。
 戦後の保守党政権下で続けられてきた教科書検定政策の政治介入的傾向を匡すべく提起されたこの裁判は、政府・与党勢力とがっぷり4つに組んだ国民的裁判として、98年の終幕まで実に32年にも及んだのでしたが、私達の事務所が終始その取組みの中核を担い続けられたことは幸いであり、誇らしいことであったと思っています。

江 森: 家永教科書裁判は、事務所の全員がかかわる事件でした。私は1970(昭和45)年に東京地裁杉本判決が出たすぐ後にこの裁判にかかわりました。何もわからず色々失敗しました。
 私は、東京高裁で裁判長の不穏当な発言を追及する中で、「教育勅語」の「兄弟ニ友ニ」を「ケイテイにユウに」というべきところを「キョウダイにトモに」と言い、家永先生に「戦後生まれの弁護士の面目躍如を示した」と言われました。これ以降、家永先生は読み間違いのおそれのある原稿には、必ずフリガナを振るようになりました。

仲村渠: 渕上先生が入所したのは2000年ですが、どのようなイメージをもって東京中央法律事務所に入所したのですか?

渕 上: 家永教科書裁判は、現在の事務所のメンバーでいうと加納先生までは関与されていますが、私が入所したときには既に裁判は終わっていました。ですので、様々な人権活動に取り組んでいる事務所だとのイメージはあったのですが、入所を決めたときには、あまり事務所の歴史を知らなかったのです。それで最初に驚いたのは、司法研修所の刑事弁護の最後の講義で、金井先生、加藤先生が担当された鹿児島夫婦殺人事件と門井先生(2000年退所)、江森先生などが担当された大森勧銀事件の二つの冤罪事件が採り上げられたのですが、その二つの事件いずれも逆転無罪を勝ち取ったのが、これから入所しようとしている東京中央法律事務所の先生方だったと知ったときです。とても身が引き締まる思いがしました。それから、砂川訴訟や朝日訴訟など憲法の教科書で勉強した数多くの憲法訴訟にこの事務所の先生方が関わられていたことも入所してから知ったことでした。

新 井: ところで、仲村渠さんは、はじめ司法修習生として当事務所で修習して、その後当事務所に入所されたのですね。東京中央法律事務所とはどんな事務所だと思いますか?

仲村渠: 弁護修習配属先の案内を頂いてすぐホームページを拝見したのですが、各先生の担当された著名事件を見てこれはすごい事務所に配属されたな、と。特に新井先生の関与事件を見たところ、砂川、百里、恵庭等の基地訴訟や、朝日、堀木等の社会保障事件、更に全逓中郵、全農林等、法学部の学生なら一度は学ぶであろう憲法訴訟を殆ど担当されていたと知り、慌てて判例集を読み返した記憶があります(笑)。実際修習が始まると、意外にと言うのは変ですが、いわゆる一般民事事件が殆どで少し安心しました。ただその中でも、指導担当の渕上先生を始めとして、それぞれの先生がそれぞれの理念を持って民主的な活動をされているのを見て、私もその一員になりたいと思い入所を希望しました。入所して1年半が立ちますが、今日お話を伺って改めて事務所が担ってきた社会的責任の大きさを実感しました。弁護士の数も増えて大変な状況ではありますが、先達が培ってきた民主的活動の灯火を未来へ受け継ぎ、自らも新たな灯火を残すべく、日々邁進していきたいと思います。