1 松蔭の闘いとの出会いは、私が弁護士になって12年目の1974年頃であった。

 当時極めて劣悪な労働条件下にあった学園でT、Yらがその改善を期するため、数名の教員と学習会・旅行会等を企画実施したことを、組合づくりと察知した理事長が、その中心と目されたTに対し、1980年に授業・担任・校務分掌を全て取り上げる暴挙に出るに至った。その為準備不足のまま、同年4月Mを委員長として急拠組合を結成して闘った。
 これに対し学園は、M委員長に対し、始末書攻撃や更に家庭科での成績評価問題を殊更に取上げ、遂には、同人を不当解雇するとともに、組合員に対する一斉差別攻撃が激化したため、組合は、これらの一連の事態に対して第1次から第4次にわたり都労委闘争を展開して戦闘的にその不当労働行為性を追求し争った。

2 学園は前記都労委闘争の限界を感じたのか、1982年2月に前記M委員長解雇問題について突如雇用関係不存在確認訴訟を東京地裁に提起して反撃してきたので、組合は直ちに応訴するとともに、Mの賃金請求を含む反訴を提起して闘った。同時にTに対する差別が1986年には、法務局への救済申立等にかかわらず職員室から2階別室への単独隔離へと拡大し人権侵害的様相を一層深めたため、組合は、止むなく学園に対し1000万円の損害賠償請求訴訟を起こし、学園の非道を徹底して追求した。

 両事件とも裁判官がめまぐるしく交替する中で、1992年6月には同地裁でT事案について総額400万円の画期的な勝利判決が出された。学園は控訴して争ったが、翌1993年11月東京高裁で更に増額した600万円の損害賠償額判決が出され、学園の上訴放棄で同判決は確定した。
 一方M解雇事件は解雇理由が100以上あり、苦しい闘いの展開を強いられたが、48回の弁論期日を経て1993年東京地裁は、教師の基本的成績評価の裁量権を認め、同人の評価は合理性があり、社会通念上の妥当性を有していたとして解雇無効の勝訴判決が出された。
 同判決は最高裁での学園の上告棄却によって確定し、今日も同種事案についての判断基準として裁判所等でも評価されている。

3 一方都労委闘争はその後賃金差別も加わり、事件数の膨大化のためその立証は複雑・困難を深めたが、81回の審問を経て、1992年1月28日T隔離・自宅待機、M解雇問題等を含む各事件で全面的に不当労働行為性を認容した勝利命令が出された。そして中労委において1996年3月、Tの1997年4月からの教壇復帰と、Mの解雇撤回、職場復帰を勝ちとった和解協定が長期交渉の末漸く実現し、闘いは困難な賃金差別を残して一応の結着をみた。この賃金差別は、最後はMの退職金不払事件が加わり、東京地裁取消訴訟等として争われたが、除斥期間問題等の多くの課題を克服して、本年4月数次の和解交渉の末、学園がその不当労働行為性を漸く認めたところから金銭解決を含む和解が成立し、33年の長い闘いは漸く勝利解決をみたものである。

 最後にこの松蔭闘争は、当初大森、亀井両女性弁護士の(M解雇問題)全面協力があり、闘争開始後順次事務所入りした加藤、斉藤、加納ら各弁護士が新戦力として弁護活動したことが、本件勝利の重要な要因であったことを付記しておく。