1 古くて新しい問題

 最近、改正論議がさかんな現行憲法の出発点は、その前文に明記されているとおり、先の大戦が我が国民及び諸外国、とりわけアジア近隣諸国の人々に対してもたらした甚大な戦争被害に対する痛烈な反省にありました。我が国は1951年にサンフランシスコ平和条約により国際社会への一応の復帰を果たし、戦争を起こした国としての責任を、国と国のレベルの問題としては一応の解決を済ませました。しかし、それは戦争の真の犠牲者が正当な補償を受けたというには程遠いものでした。

 1990年代以降になって相次いで起こった戦後補償をめぐる問題(韓国の従軍慰安婦問題は、その嚆矢たるものでした。)は、いずれも国家の枠を超えた個人の被害者が加害国家に対して直接異議申し立てをするという新しいタイプの紛争でした。

 戦後補償問題が司法の場で争われたのは、原爆被爆者の認定訴訟、空襲被害者の国賠訴訟等、当事者が日本人である事件もありましたが、事務所の弁護士が当初関与したのは、フィリピン人従軍慰安婦、中国人の従軍慰安婦、強制連行犠牲者、南京大虐殺の被害者等の外国人を当事者とする事件でした。

 これらの事件はいずれも最終的には司法の場での解決を見ることはできませんでしたが、その後、日本人でも中国人もない存在、中国残留孤児と呼ばれる人々の大型集団訴訟が提起されることになり、この訴訟では孤児の人々に対する政策を転換するという画期的な成果を獲得できました。

2 戦後補償問題全般への事務所の取り組み

 事務所で、戦後補償問題に取り組んだのは、1993年4月に始まったフィリピン従軍慰安婦の裁判に菅沼弁護士が弁護団事務局長として関与したのが始まりです。その後1995年から6年にかけて、尾山宏弁護士を弁護団長とする中国人の戦争犠牲者に対する国家賠償請求訴訟が相次いで提起され、尾山弁護士のほか、加藤、斉藤の両弁護士が弁護団に加わりました。この中国弁護団は、慰安婦事件、強制連行事件、南京大虐殺等事件、毒ガス遺棄事件等多くの事件を担当しましたが、その中でも2001年7月に東京地裁で全面勝訴判決の出た強制連行被害者の劉連仁事件、同じく2003年9月に東京地裁で「先行行為に基づく作為義務」という理論を梃子にして、旧日本軍が遺棄した毒ガス等による被害の除去の責任を国に認めさせた判決は、いずれも一審判決ながら画期的な司法判断といえるものでした。

 これらの判決は、劉連仁事件でいえば、大陸から中国人の奴隷労働のために強制的に連行してきた国は、戦後は、その行為から生ずる条理(法的な道理)として、強制連行の被害者を祖国に帰す義務を負う、毒ガス遺棄事件についていえば、他国に侵略して勝手に危険な兵器を遺棄して退却した日本軍=国は、その行為ゆえに、あとに残った危険を除去する法的な義務があるという「先行行為」の存在を前提とするものでした。

 いずれの判断も、それまでの裁判の常識からすれば認められないような理屈を、戦争被害者の実態とその原因を作った当時の我が国の軍、政府、企業の具体的行為(当事者が実体験した被害事実)に即した判断をしたものでした。

3 フィリピン、中国事件の経験の上に立った新たな闘い

 中国残留孤児の裁判は、先行する幾多の戦後裁判での積み重ねの上に、2002年12月に東京地裁で最初の裁判が提訴された事件でした。中国残留孤児の人々というのは、主として、旧満州国に戦前開拓団として渡った農民の子弟であり、ソ連の対日参戦をきっかけに生じた敗戦時の混乱の下で、親と死に別れたり、過酷な逃避行中に中国の地に「残留」させられた「孤児」(当時0歳から13歳くらいまで)の人々を言います(この敗戦時の混乱で命を落とした民間人は8万人以上にも及びます)。当時1万人以上いたという中国残留孤児の人々が、日本に帰国を果たしたのは、彼らが50代をとうに過ぎた1980年代以降のことでしたが、それは、戦後西側陣営の一員となった我が国が長らく中国との国交を持たなかったこと、1972年の日中国交正常化以後も、国が「孤児」の存在を重視せず、その帰国に積極的に手を貸そうとしなかったことによります。このため、老齢になって「異国」に等しい「祖国」に帰国した中国系日本人ともいえる彼らを待ち受けていた運命は過酷なものでした。その過酷さをもっともよく表す数字は、孤児世帯の7割近くが生活保護受給者になっているという極端な貧困でした(当時の平均的な生保受給率は1%以下といわれていましたので、70倍の貧困率といえます。)。孤児の人たちの願いは、生活保護からの脱出と間近に迫った老後生活の安定でした。

 東京で初めて結成された弁護団は、その後、全国15か所の地域弁護団の連合体へと発展し、15の地方裁判所に一斉に同種の事件が係属するという大事件になりました。原告団の総計も2200名と、永住帰国した孤児の大半を当事者とする前例のない訴訟となったのです。

 東京弁護団へは斉藤弁護士と渕上弁護士が参加をしました。斉藤弁護士は、中国戦争賠償訴訟で蓄えた経験を基に法廷における訴訟活動の全般を担当し、渕上弁護士は、法廷活動に関与するだけでなく、多くの当事者をかかえた大型訴訟を運動面で支える中心メンバーとして裁判闘争を支えました。

4 中国残留孤児裁判とその「政策形成訴訟」としての成果

 中国残留孤児の人々は、その多くが日本語をうまく喋れない方です。提訴前の事情聴取をしたときに、自分の母親くらいの年齢の孤児の中に中国語でも自分の名前をかけない方が何人もいました。まさに孤児の方々が経てきた過酷な人生をあらわすエピソードでした。当事者の皆さんの話を聞くと、10人10通りの小説が書けるくらい、歴史の運命に翻弄されてきた人達だということがわかり、その経験をいかに裁判の中に反映させるかということに苦労しました。

 中国残留孤児の裁判は、劉連仁事件や毒ガス遺棄団で裁判所が認めた論理(先行行為論)をより発展させ、孤児の現状は、戦前の満蒙開拓政策や、敗戦時(特にソ連参戦時)の軍の民間人放棄の方針によりもたらされたものであり、このような国=軍の先行する行為がある以上、中国に残された孤児を早期に帰国させる責任、帰国が遅れた場合には自立を特別に支援する責任が国に発生するという理論を前面に押し立てた訴訟活動を行いました。

 15の裁判所のうち2007年6月までに判決が出たのが8地裁で、このうち原告の請求を認めたのは2006年12月の神戸地裁判決のみでした。しかし、大阪地裁、神戸地裁、東京地裁での判決が出るにしたがって、中国残留孤児の問題が社会的に認知されるようになり、ついに第一次安部内閣のときに、総理大臣指示により残留孤児の皆さんに対する施策の見直しが指示されることになり、2007年11月に成立した中国残留孤児を対象とする自立支援法の全面的改正により、政策的に孤児の老後の生活等の救済がなされることになったのです。

 国家賠償請求訴訟という形で全国的に共通の訴えを起こし、社会に対して問題提起をする中で、法的にも勝訴判決を得て、更に抜本的な解決=政策の転換を求めるタイプの訴訟を「政策形成訴訟」ともいいます。中国残留孤児の裁判は、この「政策形成訴訟」の典型ともいえるものでした。その成果は、弁護団の編集になるその名も「政策形成訴訟―中国残留孤児の尊厳を求めた裁判と新支援策実現の軌跡」と題する本にまとめられています。是非ご一読ください。

5 現在残された課題

 中国残留孤児の事件は、全体としては2008年4月の新支援法の施行をもってひと段落を迎えました。しかし、孤児の皆さんの老齢化は進み、新たな問題として、孤児が亡くなった後に残される(中国人の)配偶者問題が運動の課題としてあります。また、支援法の認定をめぐり、法の定める境界線上の人々が認定を争う行政訴訟も続いています。法廷での華々しい闘いは終わりましたが、孤児の皆さんと弁護士のお付き合いは続いています。