97年に成立施行された臓器移植法は脳死を人の死と認め、脳死患者からの臓器提供への道を開くものでした。10年を経て、この法律の改正を巡って国会で党派の枠を超えた様々な議論が交わされたことは記憶に新しいことでしょう。09年7月に成立し昨年1月から施行された改正臓器移植法の要点は、脳死提供に関する要件を緩和したことです。改正前は、提供者(ドナー)本人の意思とドナーの遺族の意思により、脳死を死と認めるという自己決定と脳死の際に臓器提供に応ずるという自己決定のいずれもあることが臓器提供の条件とされていました。このようにドナー側の自己決定権を重視した結果、自己決定のできない児童はドナーとなりえず、児童期の臓器受領者は国内での臓器移植の途を閉ざされた結果となりました。10年間でこの法律に基づいて行われた脳死臓器手術がわずか80例余りという数字は、ドナー側の自己決定権を重視することが臓器移植にとって阻害要因となっているということを示唆するものでした。

 今回の改正法ではこの自己決定権が大きく緩和されました。この結果、①ドナーが脳死についても臓器提供についても意思表明をしていない場合でも遺族の判断で臓器移植が可能となり、また、②ドナーが臓器提供の意思を明らかにする場合、自らの親族に優先提供できる意思を表示することができるようになりました。いずれも臓器移植を増やそうとしたものですが、②は世界の立法例にも例のないユニークなインセンティブだといわれています。

 このように改正法の目的は明らかに臓器提供数の増加を狙ったものですが、脳死を人の死とすることについては依然として議論の多いことも確かです。今回の改正法の議論でも、臓器提供の場合のみ脳死を人の死とするとしていた従来の考え方を改め、脳死を人の死と一般的に定義するという案も提案されました。しかし、結局脳死を限定的に解するという点は修正されず改正前のままに残ったという経緯があります。

 私は、脳死は人の死かという議論を観念論ではなく理解できます。私の母が海外で事故により脳死状態に陥り、その際医師からの要望により私が遺族の代表として母が脳死であることと臓器提供をすることを承諾したという体験を有するからです。器械によって「生かされている」とはいえ、呼吸もし、心臓も動き、身体も温かい状態の肉親を既に死んでいるものとして扱えといわれても、感情論として到底受け入れられないというのが実感でした。今回の改正により臓器提供例が多く出ているとの報道がされ、その多くは遺族の承諾によるものだとされています。そこには報道に表れないドナー遺族の激しい心の葛藤―肉親の「死」を自ら決定しなければならない立場におかれること―があることは容易に想像できます。

 臓器移植術により助かる命が増えること自体は喜ばしいことです。しかし、いわば命と命を繋ぐリレーとなる脳死臓器移植について、その境界線をどこに引くかという問題は法律だけで決着のつくものではありません。医学、宗教、哲学その他様々な観点から今後も議論の対象となりつづけることでしょう。