[事務所創立50年企画/私と創立50年]

 
 私が弁護士になったのは1962年4月だが、当時事務所は渋谷にあり芦田・岩村事務所の名称で現在の東京中央に名称が変ったのは、確か翌年に虎ノ門に移ってからである。その後、芦田弁護士が独立したのを契機に西新橋(愛宕山下)に移り、更に麹町の秀和ビルが手狭になったため、当時貸事務所が今より少なかったため、探すのに大変苦労した上、現在の祥平館ビルを見つけ今日に至ったのである。

 50年間、事務所では色々な事件に遭遇したが、印象的なものをあげると弁護士1ヶ月で多数の死傷者を出した三河島駅での列車事故に遭遇したのが私の刑事事件の始まりである。次は、家永教科書訴訟で、わが方の証人として証言された南原繁氏や、国側の森戸辰男両氏の証言内容をつぶさに直接体験できたことで、殊に南原証人の法廷を圧倒した風格は忘れられない一事である。その後三河島事故を担当した縁もあって当時事務所の主要事件であった官公労関係の事件に多数関係し、国鉄合理化運動に係る事後処理事件に、当時の多数の同僚弁護士とともに東奔西走したことが未だに脳裏にやきついている。又当時芦田さんが中心であった東京私教連傘下の最初の事件ともいうべき実践女子学園事件をきっかけに、大学を含めた多くの労働事件に係わり、現に松蔭学園事件は十数件の勝訴判決を得ても、今日なお紛争継続中である。

 50年は長いようで短い。しかし事務所は、紛れもなくそれら活動の重要な拠点であり、かつ私の人生にとっても、重要な存在意義になっているのかもしれない。