木村まきさん/(聞き手)弁護士 新井 章弁護士 菅沼友子

 

菅沼: 本日は、現在再審裁判が行われている「横浜事件」の被告人であった故木村亨さんの妻で、再審請求人の一人である木村まきさんにお越しいただきました。「横浜事件」第三次再審請求弁護団の一員である新井章弁護士とともにお話を伺います。

新井: 横浜事件とは、1942年から44年頃にかけて、雑誌『改造』『中央公論』の編集者や執筆者ら約60名が「共産党再建準備会」に参加したなどと架空の事件をでっちあげられて、神奈川の特高警察に逮捕・投獄され、激しい拷問を受け、そのうち約30名が起訴されて有罪判決を受けた事件です。故木村亨氏らが中心となって、1986年から再審請求を繰り返し、2003年4月、三度目の請求で横浜地裁が再審開始を決定し、05年3月に東京高裁でそれが支持されて、再審裁判が行われることになりました。

菅沼: 亨さんはこの再審請求運動の中心となって活動しておられましたが、どのような思いから だったのでしょうか。

木村: 本当にひどい拷問を受け、意識がもうろうとしたところで、「私は共産主義者であります」という書類に無理やり拇印を押させられた。これだけの人権侵害をされて、泣き寝入りはできない、ということですね。人権とは与えられるものではなく、闘って勝ち取るものだ、横浜事件で勝つことは自分たちの「人権宣言」だ、といつも言っていました。

菅沼: ジャーナリストとして活躍している中で、このような事件に遭ったという点ではどうですか。

木村: 夫は、ジャーナリストとして前途洋々の時にこの事件に遭い、中央公論社も辞めなければならなくなって、その道を断たれてしまったのですが、ジャーナリストとして最後まで闘いたいという使命感は非常に強かったですね。

新井: この事件自体がジャーナリストに対する言論弾圧という面をもっていますからね。あの戦時下で『中央公論』とか『改造』とか、いわゆる進歩的雑誌が存在すること自体が当時の天皇制国家権力からは目ざわりで、そういう進歩的・民主的ジャーナリズムを何とかして叩きつぶそうという意図が背景にあったことは間違いありません。

木村: 夫が再審請求をしながら書いた日記にも、その思いがいっぱい書いてあります。今日も一冊持ってきたのですが、大学ノートに65冊くらいの日記が残っている。

新井: 本当ですね。やっぱりジャーナリストなんだな。

菅沼: 話題は変わりますが、まきさんは34歳年上の木村亨さんと1989年に運命的な出会いをして結婚されました。やはりこの事件に対する思いに共感して一緒にやっていこうと思ったのですか。

木村: 特にそういうことではなく、夫の人間くさく、何か少年っぽい無邪気なところにひかれて一緒になった。それで、夫と「横浜事件」は一体化して切り離せないものなので、私がそれに関わるのはごく自然なことでした。

菅沼: でも再審の壁を叩き続けるというのは大変な闘いではなかったですか。

木村: もちろん懸命にはやっていましたが、こういう運動はあまりしかめっ面して、体に力を入れてやっていても疲れてしまうから、歌を歌いながら、ギターを弾きながら、という感じでやっていきたい、と言っていました。実際、ロシア民謡が好きで、「バイカル湖のほとり」なんか、うっとりするような声で歌ってましたよ(笑)。

新井: まきさんも、亨さんと出会う前からやっておられた編集のお仕事を続けながら、横浜事件のための活動もされたのですよね。

木村: ええ。私も夫と同じように自然体で。

菅沼: 再審請求の話に戻りますが、亨さんは何人もの弁護士に相談したけれども、判決文がなければ出来ないと断られ、ようやく森川金寿弁護士に出会って引き受けてもらえたのですね。

木村: そうです。森川先生は、判決文は国の側に保管義務があるのだから、こちらにないから請求できないということはない、やりましょう、と力強くおっしゃって下さり、目の前がようやく開けた、と言っていました。

新井: 森川弁護士らしい、非常に真っ当な主張ですね。

菅沼: それで第一次請求を1986年に起こしたが認められず、二次請求も棄却。第三次請求が1998年。新井先生はいつ頃から関わったのですか。

新井: 第一次請求の最高裁段階で、森川弁護士に誘われて弁護団に名前を連ねたのですが、実際に本格的に関わるようになったのは第三次請求からです。私は1991年からしばらく茨城大学に転出していて、「横浜事件」からも遠ざかっていたのですが、戻ってきたら、既に非常にしっかりした第三次請求の書類ができていた。ポツダム宣言の受諾によって治安維持法は実際上効力を失っていたので、失効した法律に基づいて漫然と有罪判決を下したのはけしからん、という説得力のある主張が組み立てられていた。それで、私がポツダム宣言問題にからめて再審請求補充書を書くことになったんですね。

菅沼: ポツダム宣言問題に関しては憲法学者の鑑定もなされましたね。

新井: そう。裁判所がこの論点にのってきて、自らの判断で鑑定人を選任した。そうしたら、その鑑定の結果が、われわれ弁護団と同じ見解だった。そのことも幸いして、2003年4月の横浜地裁の最初の再審開始決定になったわけです。

菅沼: その時は既に亨さんは亡くなられていたのですよね。

木村: そうです。1998年、第三次請求を行う一カ月前に。

菅沼: 亨さんに聞かせてあげたかったですよね。

木村: そうですね。日記にも、表紙に「生きているうちに間に合うのかな?」と書いていましたし。でも、夫と私は一心同体なので、二人三脚で一緒にここまできた、という感じでした。

菅沼: 亨さんが亡くなられた後は、まきさんが再審請求人となったのですね。

木村: そうです。そんな能力がないのは分かっているのですが、年齢順でいけば夫の方が先なので、はっきり約束したとかいうことではありませんが、当たり前のことと思っていました。

新井: まきさんの場合は、幸いにも「横浜事件」といういまわしい事件を、亨さんを通じて客観的にみる立場だった。だから、これは日本の戦時中の恥ずべき暗黒政治の一部分なのだから、これを明らかにして、これからの21世紀の日本に役立てよう、という思いを素直につらぬける。しかし、自分自身も含めて一緒に当時の権力に痛めつけられた遺族の中には、やはり辛いから思い出したくない、という方もいるのでしょうね。

木村: そうですね。一緒に請求している方は、最近まで名前の公表は控えていました。夫も前の妻が生きていた時は、妻も差入れに通ったりして非常に苦労しましたので、家の中ではそのことは話題にしなかったそうです。

菅沼: 最後に、現在行われている再審裁判にはどのような期待をもっていますか。

木村: やはり60年前に何があったのか、どうしてこのようなことが起こったのか、いろいろな面から解明してほしい。特に、この事件は裁判所自身が加担している事件ですから、裁かれるべきは被告人ではなく、当時の特高警察であり、検察であり、裁判所なのです。その点をしっかり認識してほしいと思います。

菅沼: 新井先生、いかがですか。

新井: そうですね。やはり、日本の誤ったファシズム時代、その時代を牛耳っていた軍国主義政府、その手足となった当時の特高警察らの行った残虐行為、権力犯罪をきっぱりと裁判所が批判をする、ということが必要だと思います。この裁判はあくまで刑事事件の「再審裁判」という形をとっているので、限られた審理の中で「横浜事件」の全貌を明らかにすることまでは期待できませんが、少なくとも戦時中の日本の誤った国家権力の犯罪を、現在の裁判所の立場で(自己)批判することを求めて働きかけていくことが大事だと思っています。

菅沼: ありがとうございました。今後もこの裁判に注目していきたいと思います。