イラクへの自衛隊派遣は、それが憲法の根幹にふれる重大な問題なのに、国民の論議を無視したままの政府の強引なやり方に、既成事実化され、憲法感覚が次第に麻痺されていく過程を辿っている。考えてみれば、米国のイラク出兵の大義は、大量破壊兵器存在による脅威であった筈だが、当の米国を含めてそれがCIA等によってつくられたニセ情報であったことは、今や国際的にも常識である。そうなると、戦後国際法廷で厳格に裁かれた日本の9・18(1931年)から拡大した中国侵略と、どう違うのかがまず問われなければならない。次にイラク国民の米英中心の占領軍に対する抵抗と、いわゆるテロとの区別が至極曖昧なことである。確かに自動車や道路に爆弾を仕掛け、米兵だけでなく多くのイラク市民を巻き添えにするようなテロは、許されていい訳はない。しかしファルージャでおこった一連の抵抗活動はかなり様相が異なるようである。事態の背景には、宗教的立場に基づく占領の拒否と占領軍のおかしたひどい誤りがからみあって起こされたとされる。(『ファルージャで何が起きているか』、サアド・ジャワード・バクダット大教授『世界』6月号)当初ファルージャの人々は平和的に解決しようとして町への介入、捜索等をやめるように申し入れたのに米軍はこれを無視し家屋・女性・宗教者への捜索や逮捕・投獄を行い、最後はモスクまで爆撃したことによって、住民の怒りを誘発し、激しい抵抗が広汎に引き起こされたものであった。米国政府はベトナムと比較されることを嫌がるが、かかる事態は、明らかにイラク人民の抵抗運動である。これらイラクにおける一連の事態の進行は、日本国民の将来をも左右しかねない重大な問題であり、これにどう取組むかは、われわれにとっても今後の重要な課題であろう